shimashimaのblog

日々感じる想いや考えの整理するところ。

ゲストハウスナイトに行ってみて。

博多リノベーションカフェで行われたトークイベント「ゲストハウスナイト」に参加してきました。

 

ハカタリノベーションカフェとは。

ビルのリノベーションなどの周知を行い、街のにぎわいづくりをしようと「博多まちづくり推進協議会」が立ち上げたもの。場所は博多駅前の貝眞ビル(福岡市博多区博多駅前3)の1階で築44年のビルの空室を改装した。店舗面積は約75坪。席数は約70席(立ち飲みスペースも設ける(博多経済新聞参照)

博多に限定「リノベーションカフェ」 カフェ・書店などでにぎわい創出 - 博多経済新聞

 

 

ゲストハウスナイトの登壇者は三人。そのうち2人は知り合いということもあり、楽しいものでした。

 

ゲストハウスが九州の各地で始まりそうというのを肌で感じる事が出来た。

そして、登壇者もそうだし、参加してる人に共通していることは、外向きのコミュニケーションが人より高いということだ。

 

話しやすい。なんか初対面という感じがしない。素朴な疑問も聞ける雰囲気を持っている。

これって、ゲストハウスをするとかしないとか関係なしに愛される人になるために、人として魅力的な人になるためにとても繊細で大切なものなんだと感じた。

 

今回であった人とこれから更に良きつながりが生まれることを祈り、その思いを実現できるように動いていきたい。そんな一日。

足りないものを実感する経験。

 

人生において体をもって体験した事は、自分の感覚のもっとも深いところに影響を与えている。僕はいろんな人と接する中で、話してるひとつひとつのことばに熱がありその熱が相手に綺麗に伝わる感じや、ものを作る上でつくり込み方や取り入れ方がうまくカチッとしたものをつくってるのに柔らかく見える感じや、人の持ってる才能をピカピカに磨き上げていく感じ、リーダーシップをもった人の統率していく感じを目の当たりにして、本物と自分の距離はどの程度あるのかを実感することがある。

ロゴにしても、国立競技場にしても、デザイナーのこのデザインがどうしようもないとか、建築物のここがだめだとか、国家もメディアもどの世界もどうしようもないと言っている人が増えているように見える。

ハイレベルから遠ければ遠いほど人間は自信を持てる。本当にハイレベルに近づくと実際に本物とガチンコでやりあう機会や、本物を目の当たりにする機会をもてるので、リアリティをもって本物を感じる事ができる。その瞬間に自分の足りてないものを実感する。本物は本当にすごいと思う。ロゴや国立競技場ではホントにすごい本物だが、身近にも本物はいる。

実際の自分の実力が実感としてわからないまま生きていく事になる。だから妙に自信過剰であり、妙に不安そうに見える。自分の実力を知らないというのはしんどい話で、何が自分にできて、何ができなくて、何は向いていなくて、誰が本当にすごいのかが実感としてわからない。つまり世の中で生きていくときに誰についていって、自分はどうポジションをとったらいいかがわからなくなる。

足りないものを実感する経験をして萎縮してしまうリスクもある。知らなかったからこそ勢いよく無謀に思える挑戦ができるという事はあるのだろうけど。

足りないものを実感する経験ことによって、人に敬意を持ち、自分自身を把握することにつながるはずである。

勇気じゃなくて、覚悟。

自分の価値観が少し変わり始めた。

僕は、建築やデザインという分野に関わる限り、発信もしなくてはいけないし、受信もしなければいけない。と思っている。これに関しては、立場などは関係ない。有名建築家だろうが、学生だろうが、研究者だろうが、発信と受信をしなければいけない。

 

問題は、その覚悟があるかどうか。

受信に関しては、待っててもできると思っている人がいるが、違う。

待ってて得れる情報も確かにあるが、それは、ほんの一部である。

発信をしている人、発信をし続けている人だからこそ、得られる情報がある。

そして、得られた情報に動ける力がある。

大学の席に毎日座って、パソコンとずっと向き合っていても何も生まれない。
事務所で、模型ばっかりつくったり、図面書いて先方とのやりとりをしていても何も生まれない。

生まれたとしてもそれは、ほんとに小さいもので、発信し、受信した者には、かなわない。

 

ぼくは、「発信」=「行動すること」と思う。

 

何かを変えたいとき、行動するしか方法はないと思う。


このブログを書くという事も一つの行動だと思います。

自分ではできるだけ更新しよう思っている。なかなか毎日や毎週などきめて更新は出来そうにないが。


自分が考えていることを文字という有形なものにして残す時間。文字にすることによって無形のものが有形になり、自分の考えのロジカルのなさ・伝わる能力の低さ・言葉の幅の少なさなど多くのものが足りてなく、恥ずかしくなるが、それでもほんの少しだけでも冷静に自分との時間をつくっていきたいと思う。


たったこれだけで日々が少しだけ豊かになっていく気がしてます。

だから、できる限り続けていきたいと思います。

このブログを読んでいただいている方に何を伝えることができているかはわかりませんが。



やりたい事を挙げればきりがないけど、時間は有限。

 

先輩・先生・後輩・友達など色んな人からいろんな影響を受けて今の自分がいます。影響受けた発信することを選んだのも自分自身です。有限な時間の中で発信するということを選んだ自分。誰かの影響でこの道に進み、ブログも初めて。続けようとしていて。どれも決めたのは、自分。影響を受ける人を選んだのも自分。その人を信じて真似たのも自分。


自分のやりたい事を見失わず、365日間を一生懸命楽しみたいと思います。

すべては自分が決めたことだ。 

2020年オリンピックのロゴ問題で勝手に悲しくなりました。

僕は悲しいです。ひさしぶりにとても悲しいです。

ひとってもっと暖かいものなんじゃないんですか。

 

東京オリンピックパラリンピックのロゴが発表されました。

建築関係の職種にいるロゴのデザインでお金をもらっているわけでもない、1シロートの個人的な感想ですが、かっこいいなとは思いませんでした。けど、動画をみて、広がり感というかと繋がり感があるとぼくは感じました。日本人の多くが2020年に世界から来た人に対して様々な場所・時間で「おもてなし」をしたいと思っているはずです。そのさまざまな場所・時間でこのロゴがうまく、重なるんだろうなと僕は感じてました。

かっちょいいとかダサいとかそれは、個人の感性の問題なのでいいのですが、「パクリだ」とか「パクリ疑惑だ」とか「色はこのロゴそっくり!」とか、デザイナーがその騒ぎに何も言わないと「逃げた」だの「黙るってことはやっぱり…」なんてことまで言い出す始末。SNSでもメディアでも。朝のニュースでも夜のニュースでも取り上げられてるし。それの騒動に黙ってられなくなってコンペに参加した人やデザイン界隈で仕事をしてる人が、コンペの趣旨や自分自身のコンペに取り組んだ想いなども含めて、分かりやすく言葉にしたら「デザイナー仲間が擁護!」というニュースまで。デザインすることで生活するすべての人に対して失礼すぎる。

コンペについて、少し調べてみると、やっぱりオリンピックのロゴを決めるコンペだけあって、参加条件が厳しい。まず、参加するだけでも凄いと言えると僕は思う。そして、オリンピックのロゴだけのコンペではない。オリンピックとパラリンピックのロゴのコンペである。二つの大会のロゴのバランスってとてつもなく、難しいものだと思う。さらに、東京は一度オリンピックを経験している。1964年に。これは日本が国として成長するときと重なったこともあり、すごい盛り上がりであった。その時のロゴは亀倉雄策のデザインである。これは、ほんとにすばらしいものであり、いま見ても熱というか凄味が伝わってくる。同じ都市で同じオリンピックがある。これは少なからず、伝承していく必要性がある。1964年のデザインとつながりを持ちながら、二つの大会のロゴをつくる。そんなコンペ。一流なデザイナーたちが、精神削らして出したロゴを吟味して、決まった今回のロゴ。

なんで、こんな非難されないといけないのか。僕にはわからない。プロの人をもっと信用してもいいのではないでしょうか。デザインで生活してる人たちが、つくり選んだものに対してもっと信頼してもいいのではないでしょうか。デザインってすごいロジカルで繊細。とりあえず、批判の波に乗って騒いどけ!っていうノリは許されない!デザインという業界・美を極める世界・日々の生活に潤いを提供する職種を軽視しすぎな気がする。

 

非難することがカッコイイことだとか、思っている人いるけど、僕が見てきた批評してる人は、ちゃんと相手のことを理解しようとしていたし、批評することに対する責任をちゃんと持っている。何より、相手に対して、誠意を持っている。ただ相手をバカにする。あげ足をとる。とは、違う。誠意をもち、発言は前向きで、その人がより良い方向にいくこと、その世界が少し明るくなること。それがあって初めて批評は成り立つ。そこはちゃんとわきまえたうえで、人に対して接しないとダメなんだ。

ヒトやモノ・コトすべてに対して、敬意がなさすぎる。後ろ向きの発言を平気で人に対してしてる人が多すぎる。

 

僕自身、出来るだけ前方に矢印を向けてひとと接してきたつもりだし、人に対して誠意をもって接してきたつもりだったが、「つもり」ではいけない。今回の悲しい思いをきっかけに自分の発言・行動を見つめ直し、更なる自分を形成していこうと思う。

弁当男子はじめて、変わったこと。

今月から、お昼に弁当をつくっていくようになりました。

事務所の人と近くの定食屋さんやご飯処にお昼を食べに行ってましたが、弁当をつくるようになって、事務所で弁当を食べるようになりました。弁当をつくって食べることによって、色んな部分が変化しましたので、ここに整理したいと思い、いまキーボードを奏でていますw

なんといっても、「時間」が生まれました。

今までの朝は、起きてから会社に着くまで(むしろ会社についてからも)ダラッとしてました。電車で寝ることもあったし、顔を洗ったからって目が覚めるわけではなくて。午前中の仕事まで影響することも正直ありました。しかし、朝から料理をすることをすることによって、やることが明確になり、電車で寝ることがなくなり、代わりに読書の時間が生まれました。

 昼、自分の時間という新たな時間が生まれました。今まで、事務所の人とご飯に行くことが普通で、移動時間や食後の会話などで昼休みのほとんどの時間を消費していましたが、事務所内で移動なく、食事ができるので、食後に約30分という時間が生まれました。夜に持ち越していたことを昼の時間に回せるのはとても大きなことです。しかし、事務所の人と食後にする会話は仕事を円滑にするためには必要なものだった気もします。その部分に関しては、デメリットでもあるかもしれません。しかし、仕事を円滑に進める方法なんていくらでもあるので、それは、他の部分で補うものだと思います。

 夜のダラダラが減りました。何もせず、テレビを見る。本を読む。眠たくなったので、寝る。米を炊いたりなどするようになり、ある程度のしないといけないことが生活に芯を持たせてくれています。また、お昼にお金を消費しないので、夜にお金を今まで以上に使えるようになりました。1人でカフェで考えを深めたり、友人とお酒を飲みに行ったりと。

 時間が生まれたことにより、生活が少し鮮やかになりました。

読みたかった本は溜まるばかり。見たい映画は見れないまま終わる。そんな今まででしたが、自分が自由に動ける時間が増え、読みたい本を読め、見たいものを見れるようになってきました。感性を刺激してくれるものに触れることができるだけで全然違います。

 一週間ほど前、夜に時間ができたので、友達のカフェに行きました。そのカフェにたまたま来ていた美容室の店長さんと自炊の話になり、弁当作っていることを言うと、美味しい調理法や隠し味・簡単料理法など教えてもらいました。これも一つの豊かさだと感じています。

 時間ができ、生活が少し鮮やかになった僕ですが、お金はさほど貯まりません。

 弁当をつくるようになり、平日に財布を開くことない日も出てきます。そりゃお金が貯まるはず。ぼくもそう思ってました。しかし、さほど貯まらないものですね。昼や夜に自分のしたいことができるようになり、読みたかった本や見たかった映画を読める、見れるようになり、自然とそのサイクルスピードが上がりました。すると、読んだ本や見た映画から派生して更に見たい読みたいが増えていくので、そこへの投資が増えました。

 弁当を作り始めてまだ一ヶ月ですが、生活にゆとりとリズムが生まれ、より自由によりラフに自分が見たいもの、読みたいもの、聞きたいもの、に時間と使えるようになった僕ですが、弁当作るようになったことを知った友達から、「結婚がまた遠のいたね。」と言われたのでした。またってなんだ?

 さて、弁当生活2ヶ月目はちゃんと続くのでしょうか。

ぼくの先を歩いてる人。

僕の周りには、僕の先を歩いている人がほとんどで...。

ぼくはそのぼくより先を歩いてる人に追いつきたくて、その人に少しでも追いつきたくて、そのひと目指して走り出して。走ることなんてしたことないからそりゃすぐ息も切れるし、休まないとやっていけなくて。最初は走って休んでを繰り返して、そしたら歩いてるのとそんな変わらないぐらい時間かかってて。

少しずつ走ることに慣れてきて、ぼくがこのひと先にいってるな。とかんじたときぐらいの位置ぐらいまで走ってこれで追いついたなぁと思って、顔をあげてみたら、ぼくが目指した人との距離はさらに開いてて。全然追いつけてなくて。もう本当に全然追いつけなくて。

けど、ぼくが目指したいなと思ったぐらいの位置まで行けたことで、その人の凄さも分かったし、その人は歩いてるんじゃなくて、物凄く走っていたことも分かった。一人ですごいなと思ってた人だったけど、凄く人を頼りにしてることがわかった。周りを頼りにしてるからこそ頼りにされてることも分かった。感性で物事を判断できて凄いな。と思ってたけど、すごく考えて、凄く勉強して、凄く悩んで物事の判断をしてることも分かった。

 
その人と出会ってなかったら、ただの凄い人だったけど。その人に認められたくて、その人の少しでも近くで学びたいと思って、その人に追いつきたくて、走ってきて、その人との差は埋まることはなくて。
 
やっぱりぼくが凄いと思った人はいくらたっても凄いんだ。と改めて。あつかましいけど、自分の一部かのように、自慢できる人が周りにいるっていうのは、生活が豊かになると同時に、人生として幸せなことなんだろうと思う。
 
ぼくは周りの人のチカラをたくさん使って、僕の人生を鮮やかに彩ってるんだな。と。

ポジショニング。

自分のやりたいことや、やりたい世界で見たときに、どういう動きをするべきなのか。
自分がより良くなるために、どの役割をするべきなのか。
チームとして動くとき、チームとしての完成度を高めるためには自分はどう動くことが最良なのか。
 
他人からどう思われているのかを計算してどのように仕掛けていくのか。
 
より、自分が輝くために、
より自分の周りで輝いて欲しい人が輝くためにどう行動していくのか。
 
少しずつだけど、ホント少しずつではあるが、
破壊力のある人と破壊に関して戸惑いがある人を重なり合わすことが出来ている。
僕にとっても双方にとっても絶対に鮮やかになれる方向に進めていけている。
「繋ぐ」というより「重ねる」。
 
年齢や性別・価値観・出身など普段重ならない部分を、最小限にそして、より鮮やかになるように重ねる。そして、重ねた部分でも、そうでもない個々でもより明るく彩ってくれるものだと信じながら。
 
僕は、明るく鮮やかな場所になる僕の周りに負けないようにすることが、僕自身の生き甲斐に変わるはずだと信じて。